先週お知らせさせていただきました青木匡光先生の講演会は多数のご参加をいただき無事開催することができました。この場で恐縮ですが、ご参加いただいた方々に御礼もうしあげます。
正直に言いまして何度も青木先生のご講演を受けさせていただいてきました。しかし、今回ほどぐいぐいと引き込まれ、自身を反省させられたことはありません。先生のやさしい語りのバイブレーションの中で、人と交流を深めていてくために大事な人の「香り」ともいうべき魅力をいかに自分が作ってこなかったかを反省させられました。青木先生は、「ギブ・アンド・テイク」よりも「ギブ・アンド・ギブ」が大事だと物が極度に不足していて戦後のまもない時代からおっしゃっいて、実践されていたと父から聞かされておりました。私が成人してからも青木先生がいくつものご縁のチャンスを投げてくださっていたことが思い出させられました。こうした大事なご縁を生かせずに人生の半分をすごしてきてしまった私を本当に恥ずかしく想います。
また、講演の中でいただいた「ご縁」を生かすEQの具体的な実践について明確に教えていただいたと感じています。例えば、「5マメ」というお話をいただきました。
あたりまえのことですが、この5つを実践するだけで人生が豊かになることは誰でも納得できるのではないでしょうか?この筆まめだけでも、実践しようとこころに決めました。5マメの実践の力はすごいです。実例で言えば、実は青木先生とも関係があるのですが、あるご縁で長野県の大鹿村へ先日行ってきました。大鹿村の様子については書きたくてうずうずしているのですが、ネタの節約という観点から次回へ送ります(笑)。とにかくすばらしかったの一言です。
平成17年(2005年)10月:北海道美瑛町などとともに全国7町村が発起人となり「日本で最も美しい村連合」を設立。大鹿歌舞伎という伝統芸能と、南アルプスを臨む美しい環境を守るためにも、参加が村発展の契機になることが期待されている。
@ wikipedia
青木先生の講演の前座で触れましたが、ご縁で行かせていただいた大鹿村でなにを学んできたかといえば、やはり建設業の地域で果たす役割の大切さです。
大鹿村へ行ってきた翌週にある建設会社の社長さんと会いました。お近くだと知っていたので、「大鹿村へ行ってきましたよ。」と申し上げたら、びっくりされ「あの村では永いこと仕事をしてきたんですよ。あの村を支えてきたのは、建設業だったのですよ。」という話をされました。大鹿村で昔の寺社仏閣などの建物が果たしてきた役割については改めて触れます。これもすごい話があります。建設業は、砂防工事や、道路の整備などで直接的に村のインフラを作ってきたことはもちろんですが、村長さんもごあいさつの中でおっしゃっていたように一時期大鹿村周辺のメイン産業は建設業であったようです。
地域を支える上で、国が行ってきた国土保全の動きは本当に大きな役割を果たしてきました。これは建設業にいる人間であれば、どうしてもふれずにいられない話です。
公園は、1961(昭和36)年の集中豪雨災害「三六災害」で大規模崩落した大西山を整備。地元住民が犠牲者の慰霊と災害復興を願って、昭和40年代初めから桜を植えた。
@ 信州の花だより
あのときお世話になった方々のご恩は忘れません
@ 三六災害 (梅雨前線豪雨、昭和36年6月)
今の現状はともかく、間違いなく戦後日本のすみずみまで治水管理が徹底され、農地が整備され、道路網が広がっていく過程では、建設業は日本国中の「地域」を支えてきました。私はこれまで「正々堂々の構え」を掲げ、市場原理が建設業界内で徹底されることが一番大切なことだと主張し、行動してきました。しかし、今これまでの体制があまりにあっけなく崩れていくのを見ているうちに、建設業が確実に果てしてきた役割を再度見直すことが地域に住む自分にとって大事なのだと気づかざるを得ないようになってきました。
もしかすると今回のタイトルは「建設業は地域を支え続けられるのか?」にすべきだったかもしれません。
建設業はこれまで「ご縁」を大切にすることで、よくも悪くもその責務を果たしてきたとはいえます。私に言えるのは、これからも「ご縁」を大切に、地域に根ざした建設業を続けていくことしか私には自分の責任を果たす方法がないという事実だけです。